「ふつう」でいる限り、やりたいことはできない
先日、何かの領域においてマイノリティとみなされる人たちと軽食をとりながら、お話する機会がありました。
見た目やつけられたラベルによって疎まれたり、なぜか「ふつう」の人たちに気を遣わされて生きてきていたり。
率直に感じたのは、環境的なファクターも大きいかもしれませんが、
「世の中において自分は何者なのか」「自分はどんな価値が与えられるのか」
こういったところの理解が深く、かっこいいなあ、と。
自分に置き換えてみたときに、それなりにアイデンティティを追い求めてきた自負はあるものの、
こうした問いに対する本質的な解は導けていないですし、向き合い考える頻度自体がだいぶ少ないと感じます。
基本的に、ふつうにしてれば豊か、って感覚があるんじゃないでしょうか。
そのふつうにしてれば、っていうのが、
出る杭は打たれるという言葉に代表されるような形で、私たちの感覚に染み付いていて、いつしか
「ふつう」=目立たないこと、馴染むこと
という公式が固定観念と化してしまっています。
外見、内面が他に馴染みやすく、一見大きく目立つところのない、
もともと「ふつう」に馴染みやすい人たちは、自己確信できる場面を自ら捨てがちなのかもしれません。
自己理解を深め、根底にある欲求や嗜好を開放したら、
平べったくアベレージに収まっていられる訳がないんです。
どこか、ぶっとんでたり、突き抜けていて当然なのではないでしょうか。
「ふつう」に安住することで、自分の欲求さえもプロトタイプ化していって、
キャリア選択とか大きな決断を迫られた時によくわかんなくなってしまう。
就活を前にして自己分析してみたら、自分と向き合うことに慣れていなくて、迷い込み、
結局、ネットやら書店に転がっているテンプレートに手を加えたようなエントリーシート作っちゃったり。
意識的にでも突き抜けるように尖っていった方がいい。おそらくそれでも、小さい頃から自我を理解し主張することに慣れてる国の人たちには敵わないから。
以上、先っちょでした!