キャリア選択のゴール〜変わりつつある「安定」した就職の意味

現在大学生の私たちと親世代(50代)の就職活動における社会状態の違いについて考えてみました。

 

そもそも就活の位置付けは、学ぶ事が本業だった大学生が、「働く」ことで自分や家族を養う社会人になる転換期に、自分のライフスタイルや培ってきたもの、目指すものなどと照らして、働き口とマッチングを行うことです。

 

職選びの中で、食いっぱぐれることのない「安定」を追い求める傾向が強いことは、今も昔も同様ではないでしょうか。

 

 しかし、高度経済成長期にから今に至るまでで、社会の状態や求められる人材、そして「安定」という言葉の定義は変遷しています。

 

まず、社会の状態。産業の中心が第2次産業から第3次産業へ移行したことにより、設備や資金を持つ者が絶対的であった時代から、よりソフト的な部分の人材が重要視される時代になっています。

 

 そこで求められる人材も、もちろん変化の中にあり、企業や組織の持つ資源をうまく転がせる人材から、自ら価値を生み出せるであったり、複雑化する人々の欲求や社会情勢に対応して与えられたものを加工修正できる人材が求められていきます。よく耳にする当事者意識なんてマジックワードもそのひとつ。

マニュアルに忠実に従って成功パターンの再現ができるのが旧来型の理想人材。

 

対して、ルールや役割に縛られず場に応じた判断を下して、その状況をドライブできる人材が、今求められていると感じています。

 

そして、「安定」の定義。

大企業に就職しておけばひとまず安泰、長いものに巻かれてある種の忠実な「歯車」になれれば、カネやポストが充てがわれ、社会的に容認されうる状態になれるといったのが従来なら、

どんな環境においても価値を発揮できるスキル、あるいは環境適応力を備え、その中で意志を貫いて価値を創出できることが求められていくのではないでしょうか。

 

 

要するに、自己決定できる基軸がないと、しんどいご時世ですよ、ってことです。

ここからが私が考察したことですが、

 

(1)親や環境から与えられたもの→志向性の形成→志向性と合致する環境の選択→方向性の決定

(2)興味関心→経験(ここ何回か繰り返す)→特別な原体験→領域の選択→フォーカスする「点」の決定

 

基本的に、将来とかやりたいことって、上記の二つで形成されていくと思います。おそらく多くの大学生は、どっちかしかできていないか、それぞれの1個目か二個目の段階で止まってるんじゃないでしょうか。だから、キャリアとか就活に直面した時に、自分が何したいかわかんなくなって、先輩のESもらったり、ネットで拾ったテンプレ使ったりして、きちんと意思決定せずに身を任せてしまう。それなりの豊かさを持っているゆえできることであり、虚無感にすら気づけずに定年迎えちゃうとか、結構多いんだろうな、と思います。

 

馬鹿じゃねーの、自分で考えろや、ってのが率直な思うところですが、

気づくことすらできない環境に、気づける者が変化を加えていくのが、世の中を動かす筋として妥当です。声高に主張していこうかと思います。

 

 

以上、先っちょでした。

「ふつう」でいる限り、やりたいことはできない

 

 

先日、何かの領域においてマイノリティとみなされる人たちと軽食をとりながら、お話する機会がありました。

 

見た目やつけられたラベルによって疎まれたり、なぜか「ふつう」の人たちに気を遣わされて生きてきていたり。

 

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率直に感じたのは、環境的なファクターも大きいかもしれませんが、
「世の中において自分は何者なのか」「自分はどんな価値が与えられるのか」
こういったところの理解が深く、かっこいいなあ、と。

 

自分に置き換えてみたときに、それなりにアイデンティティを追い求めてきた自負はあるものの、

こうした問いに対する本質的な解は導けていないですし、向き合い考える頻度自体がだいぶ少ないと感じます。

 

 

基本的に、ふつうにしてれば豊か、って感覚があるんじゃないでしょうか。

そのふつうにしてれば、っていうのが、
出る杭は打たれるという言葉に代表されるような形で、私たちの感覚に染み付いていて、いつしか

「ふつう」=目立たないこと、馴染むこと

という公式が固定観念と化してしまっています。


外見、内面が他に馴染みやすく、一見大きく目立つところのない、

もともと「ふつう」に馴染みやすい人たちは、自己確信できる場面を自ら捨てがちなのかもしれません。

自己理解を深め、根底にある欲求や嗜好を開放したら、

平べったくアベレージに収まっていられる訳がないんです。

どこか、ぶっとんでたり、突き抜けていて当然なのではないでしょうか。

 


「ふつう」に安住することで、自分の欲求さえもプロトタイプ化していって、
キャリア選択とか大きな決断を迫られた時によくわかんなくなってしまう。

就活を前にして自己分析してみたら、自分と向き合うことに慣れていなくて、迷い込み、

結局、ネットやら書店に転がっているテンプレートに手を加えたようなエントリーシート作っちゃったり。

 

 

意識的にでも突き抜けるように尖っていった方がいい。おそらくそれでも、小さい頃から自我を理解し主張することに慣れてる国の人たちには敵わないから。

 

以上、先っちょでした!

大学って何をするところ?〜キャリアから考える学生の意義

このごろ、自分が好きだなあ、と思う人に対しては、好きなことをして生きていく上で、大学を辞めることも選択肢の一つにある、ってことは伏せずに話すことにしています。バイアスかけられがちですが、小さな摩擦を恐れて、身内の輪を狭めてしまうのは寂しいですし、何より人に言うことにブレーキがある時点で、「ふつう」のレールに縛られているのかもしれません。

 

 

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キャリアとか将来の話をするたびに、意識高い系の拗らせプロトタイプみたいに捉えられたり、「どうしちゃったの大丈夫?」と心配されたり、或いはかっこいいと評価されたり。

 

要するに、与える印象は様々なわけですが、やはりほとんどの人にとって、学歴というものさしが評価軸であることが見受けられます。学生っていう立場を選んでおきながら、他の評価軸を他者に求めるのもおかしな話で、こうした印象は当然かと思います。

 

学歴というか、とりあえず大学に入ったのなら、

「卒業するもの、中退はアブノーマル」っていう見方がスタンダードな中、その渦中も渦中で、学歴のものさしから脱却することはどのくらい妥当なのか

大きく手を抜くことなく、高校までテストや受験に向けて勉強してきました。その結果が中堅大学。ということは、このものさしの上にいるうちは、基本的に中の上くらいが自分のポジションということになります。

そんな出来レースつまらないですし、せっかくならNo. 1目指せるフィールドで戦いたいものです。学生でいながら、学歴のものさしとは他の基軸の上に生きられるのか。

 

 

もう一歩踏み込んで考えると、大学をどんなキャリアパスにできるか、ということにもつながります。学生の本旨は学問である、というのは確かだと思いますが、大学の位置付けは学問の追求だけにおさまらず、多様化しているのではないでしょうか。

 

やりたいことやキャリア選択を行うことを学生のうちにすることとして挙げられがちですが、これは大学の授業で得られるものというより、与えられた時間によって可能になるものです。

ここで、仮に大学に通う目的を、やりたいことを見つけるための猶予期間と置くのならば、大学のネームバリューや卒業の有無はさして問題ではなくなってくるはずです。

 

 

学歴不問のフィールドは学生の立場からは見つけづらいだけで、無数にあるものだと思います。改めて、キャリアやフィールド、生き方の選択肢を広く持ちたいものです。

 

 以上、先っちょでした!

参院選から考える社会の構成員としての私たち

選挙区違うし、政治には疎いからあれだけど、
街頭を熱狂させてた人でも当選しないあたりから、平安なご時世において犬養毅みたいなミラクルは起こしづらいらしい。良くも悪くも、豊かさに慣れた私たちは安定や安泰を求めて、大きな変化を嫌う。

その癖、世の中に対して要望は大きかったり。有権者になったいま、政治への当事者意識を自問してみました。

 

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選挙については色々思うところがありますね。若者がどのくらい投票したのか、とか。18歳〜有権者になった今回、新規に加わった18〜20歳の層は、けっこう候補人も照射していたんじゃないかと思います。

一票にどのくらいの価値があるかは測れなくても、所属する社会への責任は頭数で当分のはず。


その上で、社会に対して理想を掲げるとかちょっとハードルが高いけれど、
要望を伝えることと、そのために払うべきリスクには文句を言わないくらいは、スタンダードであってほしいです。

要望を伝える手段が、投票って形になっていて、候補人を通じて反映されるのがいまの仕組みであるのだから。

その要望が不平や不満として溜まっていくことは、稀ではないです。でも、不平を抱える人のうちどのくらいが、投票したのか。

もし与えられている機会を放棄しているのに、社会に文句を言っているなら、もったいないし馬鹿みたい。

 

 

あんまり批判的になるのは好きじゃないけど、意思を持たない層がボリュームゾーンになっているというか、自他共にマジョリティと思っている現状にはなんだかなあ、って感じです。

経営コンサルタントの新 将命さんの本で、ビジネスパーソンの5種類の話を思い出しました。

 

消化型(人の火を消してまわる)
不燃型
可燃型
自燃型
着火型(周りの人の心に火をつける)

 

 

要は、下にいくにつれて能動的になっていく訳ですが、作用されず作用しない中間の3種族、見え方は違えど、影響力だけだと同じなんですよね。

 

せめて自分の関心のフィールドでは、いてもいなくても変わらないマジョリティではなく、影響や価値を与えられる着火型になっていたいです。

 

突然ブログ始めましたが、よろしくお願いしますー

以上、

先っちょでした!